返すつもりの機械を、澄江は雨にぬらさないよう、花柄の手ぬぐいで二重に包んできた。
明日の選択室の扉を開けると、古い呼び鈴が一度鳴った。
雨はさっきより細くなっていた。澄江は傘を閉じるより先に、胸に抱えていた包みのぬれた角を手のひらでふいた。
「これ、返しに来ました」
机にいたノアが立ち上がる。
澄江は花柄の手ぬぐいをほどいた。白と薄い灰色の丸いロボットが現れた。目のような画面は消えている。横には、黄色いテープが少し曲がって貼ってあった。
まめ
邦夫の字だ。右端がまた浮いていたので、澄江は指先で押さえた。
「井上さんのお宅で試していただいていたロボットですね」
「主人が借りたものです。本人がいないなら、返したほうがいいでしょう」
ノアの目が一度だけ、澄江からロボットへ移った。
「お預かりできます。ただ、四時に返す手続きが始まると、このロボットに残っている予定と記録は消えます」
「結構です」
澄江はすぐに答えた。
「消したものは戻せません。四時までは止められます」
「聞こえましたよ」
ノアはそれ以上言わず、乾いた布を机に敷いた。その上へロボットを置き、充電器をつなぐ。
画面の端に細い緑の光がともった。
あの光が初めて井上家の居間にともった日、澄江は、三日ともたないと思っていた。
*
半年前、邦夫は同じロボットを両腕で抱えて帰ってきた。
膝を悪くしてから、薬を飲む時間を忘れることが増えていた。夜中に立ち上がった回数や、水を飲んだかどうかも記録してくれる。説明書を開いた邦夫は、頼まれてもいないのに最初のページから読み上げた。
「見守りもしてくれるんだと」
「見張りの間違いじゃないの」
「録画はしない。動きの変化を見るだけだ」
「見られるのが嫌だと言ってるんですよ」
ロボットは食器棚の横に置かれた。澄江は台所から出るたび、画面の黒い二つの丸と目が合う気がした。
その晩、花柄の手ぬぐいをかぶせた。
「見守りができません」
布の下から声がした。
「見なくてよろしい」
邦夫が新聞の向こうで笑った。
「故障したら弁償だぞ」
澄江はむっとして、手ぬぐいをセンサーにかからない位置までずらした。
翌朝、黄色いテープが貼られていた。
「何です、まめって」
「まめまめしく働くから、まめ。番号で呼ぶよりいいだろう」
「呼びませんよ」
邦夫は返事をせず、曲がった字を指で満足そうになぞった。
それから毎日、午後三時になると、まめは同じことを言った。
「お茶の時間です。湯のみは、二つです」
邦夫が登録した予定だった。
「湯のみの数まで言わせる必要がありますか」
「俺は一つだと、お前の分を忘れる」
「忘れたことなんてないでしょう」
「だから効いてるんだ」
話が通じない。澄江はそう言いながら、湯を沸かした。
まめが薬の時間を告げても、邦夫は将棋番組を見たまま動かない。三度目の声かけで、澄江が薬と水を持ってくる。
「ほら。あれがうるさいから、さっさと飲んで」
「あれじゃない。まめだ」
「どちらでも同じです」
同じではないことを、澄江の手だけが先に覚えていった。
充電台から半分はみ出すと、夜中に短い音を出す。画面が少し曇ったら、乾いた布で拭く。黄色い名札は右端からはがれる。
ある日、邦夫が湯のみを倒した。
茶は座布団ではなく、まめの背にかかった。澄江は邦夫の膝より先にロボットを抱き上げ、花柄の手ぬぐいで水気を吸った。
「嫌いなわりに、扱いが丁寧だな」
「壊して、修理代を払うのが嫌なだけです」
「そういうことにしておこう」
まめは何も分からない顔で、画面を一度明るくした。
*
邦夫が亡くなったのは、春の初めだった。
人が大勢来た。玄関に靴が並び、やかんは一日に何度も鳴った。誰もいなくなると、家には使った湯のみと、畳についた四角い跡だけが残った。
その日の午後三時、まめはいつもどおり告げた。
「お茶の時間です。湯のみは、二つです」
澄江はきゅうすを持ったまま立ち止まった。
「一つだよ」
「予定を変更しますか」
「しない」
答えたあとで、何をしないと言ったのか、自分でも分からなかった。
「お茶の時間です。湯のみは、二つです」
「黙っておくれ」
澄江は電源を切った。
欲しかったはずの静けさは、冷蔵庫の音まで大きくした。
それから、まめは食器棚の横で眠ったままだった。
火曜日になると、隣の佐藤さんが玄関先まで来た。
「今度、お茶でもどう。火曜なら私、いつでもいるから」
「そのうちね」
澄江は毎回そう答えた。そのうちは、予定にはならなかった。
花柄の手ぬぐいでまめのほこりを払い、黄色い名札を押さえる。そんなことをするくらいなら、返してしまえばいい。
だから今日、ここへ来た。
*
選択室の柱時計が三時を打った。
充電中のまめの画面が明るくなった。
「お茶の時間です。湯のみは、二つです」
澄江の手が、返すための用紙の上で止まった。
「一つだよ」
「予定を変更しますか」
部屋の奥で、低い音がした。
ノアが振り向く。地下へ続く階段の下から、うすい光が上がってきた。分岐スクリーンが反応したのだ。
澄江はまめを抱いた。ぬれた手ぬぐいはノアが預かり、二人で階段を下りた。
スクリーンには、三つの場面が並んでいた。
何もなくなった食器棚の横。
誰も座らない席に、二つの湯のみを告げ続けるまめ。
それから、画面の予定を変えようとする、しわのある手。
どの場面も、その先を見せなかった。
澄江は途中で背を向けた。
「よその明日は、もういいよ」
階段を上がり、机へ戻る。返すための用紙には、三時十五分と書かれていた。
澄江は椅子に座った。
「これを残すと、いくらかかります」
ノアは、使い続けるための用紙を一枚出した。澄江は毎月の料金を指で押さえ、しばらく見た。
「記録は、誰が見るんです」
「見られる人を選べます。井上さんだけにすることも、必要な連絡先だけを登録することもできます」
「主人の予定だけ消せますか」
「はい。全部を残すか、全部を消すかではありません」
澄江は返すための用紙を机の端へ押した。
「では、そっちの紙をください」
ノアが差し出した新しい用紙に、井上澄江、と書いた。邦夫の名前を消して使うのではない。新しい欄に、自分の名前を書いた。
次に、まめの画面で予定を開いた。
午後三時 お茶。湯のみは二つ。
澄江は「二つ」を消した。空いたところで指が止まる。
かばんから電話を出し、佐藤さんへかけた。
「火曜のお茶、まだ来てくれるかい」
電話の向こうで、佐藤さんが何か長く言った。
「分かった、分かった。三時に来て。機械も戻るから、驚かないでよ」
通話を切る。
澄江は火曜日の欄にだけ、湯のみは二つと入れた。ほかの日は、お茶の時間ですとだけ残した。
「登録名は『まめ』のままでよろしいですか」
ノアが尋ねた。
澄江は、右端の浮いた黄色いテープを押さえた。
「そこまで変えると面倒でしょう。そのままで」
四時になっても、記録は消されなかった。
澄江は椅子の背にかけてあった花柄の手ぬぐいで、まめを包み直した。来たときより少し軽く抱き、選択室を出た。
*
次の火曜日、午後三時。
「お茶の時間です。湯のみは、二つです」
まめの声と、玄関の呼び鈴が重なった。
「分かってるよ。まめ、そこだときゅうすが置けない」
澄江は花柄の手ぬぐいごと、充電台を食卓の端へ少し動かした。
邦夫の湯のみがあった場所は、空けたままにした。まめの場所は、その隣でいい。
入ってきた佐藤さんが、食卓の白いロボットを見た。
「返したんじゃなかったの」
「返しそこねたのさ」
「その子、何ていうの」
澄江は二つの湯のみに茶を注いだ。まめの名札は、前と同じように少し曲がっている。
「まめ。うちの、まめだよ」
まめの画面に、次の予定が表示された。
火曜日 午後三時 お茶
一週間も先の話を、気の早い機械だ。
澄江は消さなかった。
